これは愚痴か?

2014年10月06日

中間対策も中盤。そろそろテスト範囲がどこまでなのか気になる時期です。
昨日は日曜日でしたが中三は朝から授業でした。

ある中学校の国語の授業中。
今までに学校で受けている単元は詩と古典。テスト範囲としては少しバランスが悪い。現代文が入るはずだと思い、生徒たちに確認をとりました。
「今やっている単元の次に何をやるかわからへんかな?」
生徒の一人、
「あ、現代文いれなあかんから、『故郷』というとこやるって言うてたで。」
「テスト前最後の国語の授業で読めたらいいかなあ、て言うてはったわ。」

はい、出ました。必殺“朗読1回だけで後はワーク見て自分でやっとけよ攻撃”

最後の1時間でぱぱっと読んで、詳細な解説は一切なし。当然ノートに書き写す板書もペラペラの内容です。でも中間テストにはかなりの配点で出題されることは明らかなわけです。

驚かれる方もいらっしゃるかも知れませんが、これはどこの中学校でも国語という教科では毎年のようにあることなのです。

もし、国語以外の教科でこれが行われたら、おそらく大問題になってしまうのではないでしょうか。

英語で文法も単語も教えず教科書の文章を出題する。数学で相似条件教えずに図形の問題を出す。どちらもありえないことです。

でも国語ではまかり通ってしまう。現代文ならとりあえず書いてあることは「読める」という理由なんでしょう。

しかし。

例えば今回の『故郷』という小説。作者は近、現代の中国文学の中でも有名な「魯迅」です。『阿Q正伝』や『狂人日記』は聞いた方も多いでしょう。

『故郷』の舞台は辛亥革命による清朝崩壊期の混乱する中国社会のなかのある田舎の村です。新しい民主的で平等な社会を夢見る「わたし」が、時代の変換点における経済的困窮の中で「新しい社会への具体的な希望」を見出すこともできないまま、旧体制の意識から脱却できない故郷の人々との間で迷い、苦悩する話です。

主体的にも倫理的に生きられない故郷の人々の様子がシニカルなユーモアを交えた表現で描かれます。「わたし」は故郷の人々の有様に絶望しつつも、若い世代に新しい社会への希望を見出して物語は終わります。

当時の中国社会に生きる様々な人々の意識がリアルに感じられる面白い小説です。

ところがこの小説の面白さが中学生に伝わるためには、当時の中国の歴史背景を事前に知っておくことが絶対条件です。それを講義されないまま読んだだけでは、この小説は「二十年ぶりに田舎に帰ったら、村の人はみんなイヤな感じの奴らになっていて、幼馴染もすっかり貧乏人根性が染み付いたおっさんになっていましたとさ。」みたいな話と、中学生の読者は受け取りかねません。

つまり、この『故郷』という単元、たっぷり時間をかけて解説しないと生徒にとって何の意味もないものになってしまうのです。中間テスト前1時間でやっつけてしまうにはもったいなさすぎる単元なんです。

塾は「点数をとる」ことがその存在意義の根幹です。塾の授業を通して生徒が知識以外の何かを学び、成長するのは、あくまで生徒個人が主体的に塾に関与するからです。

僕は常々、塾が精神的、倫理的成長そのものを生徒一人ひとりに教え、導いているのだと勘違いすることだけは絶対にしてはならないと肝に銘じています。

塾の講師の努めは学力を上げるための情報を提供すること。精神的に成長するのはあくまで生徒自身の意思による。そうでなければ塾の講師は尊大で鼻持ちならない不遜な存在になってしまいます。

だから塾の講師にとって、生徒に「文学の楽しみ」を教えるのはあくまで副次的な要素であるべきだと思っています。

偉そうに書いてきたこの文章も、「中間テストまでにしっかりとこなさなければならない単元が増えて焦っている塾講師の愚痴」と読めなくもありません。

でもねえ。

学校の国語の先生だけは「文学好き」、「小説を読むことで心がわくわくする気分がわかる人」であって欲しいと思うのは、やっぱり愚痴なんでしょうか。

よくわからないので、生徒が中間テストの国語の点数をきっちり取れるようにがんばります。